Time is a Traveller

旅行記とか、アーリーリタイアとか、日々の雑多とか。

過去の旅行の思い出をブログで書くことの意味について考えた。

昨日ツイッターでも呟いたのですが、最近旅行に行けなくなってから、昔のアルバムを見ることが多くなったと思う(ジジィ臭漂いますが😅)

 

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旅行に本格的に行くようになって10年ちょっと。

旅行をし始めたときには、いろいろなことがもっと新鮮だったようにも思えます。

若さもあったのかもしれないけれど、もっと冒険していたしね。

 

でも、最近はどうだろう?

プールでゆっくり、ホテルでゆっくり、「暮らすように旅する」的なクラスターにいる。

 

それはそれでいいのだと思うけれど、ワクワク感とか、ドキドキ感、旅行の非日常性とか、特別感とか、ちょっと取り戻したいなあとも思っている。

 

今回の自粛はそういう大切なことを思い出す機会になっているのかとも思う。

 

 

過去の旅行のことを書くことについて、こんな意見がある。

 

ブログの情報は、新鮮さ、正確さだよ。

 

確かにそれはある。

 

そうじゃないとPVは稼げないんだよ、君。

 

確かにね。

 

 

でも、私のブログの目的はそうじゃない。

 

私の旅行ブログが扱うのは、

 

私の思い出、私の経験、私の見た主観的な世界

 

学術的には、現象学、というのだけれど、客観的な世界ではなく、あくまでも、私が知覚した世界を描写すること。

 

ここでは、客観的な情報の代わりに、私の喜びや悲しみ、興奮や憤りなど、たくさんの感情が主役になることが許される世界。

 

だから、客観的な情報に照らし合わせれば、勘違いがたくさんある。偏りもあるし、偏見もあるでしょう。

 

でも、それは、当たり前。それが前提なのです。

知覚の世界なのだから。

 

 

客観的な情報は(というものがあるとすれば)、ガイドブックがしてくれるし、まとめ系サイトがしてくれる。Wikipediaがしてくれる。

 

客観的な情報の提供は、他の誰かができること。

 

でも、私が知覚した世界は、他の誰かが記述をしてはくれないし、他の誰かが記述できるものではない(誰かを雇ってロングインタビューをするとか、まあ、方法はなくはないのかもしれないれど)

 

もちろん、そういう知覚の世界は、時間が経つにつれて、変化していくもの。

記述する「私」自身が変わっていくのだし、その私が「今」という次元から過去を評価しているのだから。

 

「時間」という現象を考慮することなしには存在し得ない世界。

 それが過去の旅行の思い出をプログで書くということ。

 

だから、客観的な世界とは、ますますかけ離れていくのだけれど、その代わり、過去のその時と今が出会う次元にあると考えることができる。

 

過去の旅行の思い出をプログで書くという行為は、その時の経験を思い出しながら、自分の今と結びつけながら、進めていく作業だ。

 

 

記事上方のアンコールワットの写真。

その時の気持ちを覚えている(と今の私は思っている)

今の私と過去の私にはいつもズレがある。

 

 

その過去の旅行の経験を懐かしんだり、大切に感じたり、「若かったなあ」と反省したり、どう成長したのかと考えたり、今の自分にとってどういう意味があったのかな…だったり、なんでまたここに行きたいのか、いやいやもういきたくないよ…なのかだったり、なんでこういう旅行をしなくなっちゃったのかな…だったり、もっとこういう旅行をしたいなあだったり。

 

そういうことを意識しながら、そういうことを大切にしながら、過去の旅行の思い出をアップしていく。

 

そうすると、これから先どんな旅行がしたいのか、どういう旅行が自分にとって意味があるものなのか、見えてくるのかもしれない。

 

過去と今と未来がつながってくること。

その中で、色々な「私」が出会い、一つの理解可能な意味体系として、構築、再構築される出来事。

 

そこに、情報の羅列や新鮮さ、正確さの追求とは異なる、私的で、自己内省的な「私の世界を記述する」旅行記を書く重要性の一つががあるのではないかなと思う。

 

最後まで読んでくださいまして、ありがとうございました。