Time is a Traveller

旅行記とか、アーリーリタイアとか、日々の雑多とか。

○○イストとか○○イズムとか、何者かになろうとしたい時は、私的にはちょっと危険信号なのかもと思うこと。

ちょっと攻撃的に見えるかもしれませんが、実は、これ、自分への戒めとして書いていますので、お付き合いください。誰か特定の人に対する批判とかではありませんので、ご理解を頂ければと思います。

 

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人間誰しも、何々になりたいとか、誰々さんみたいになりたい、とか。

そういうのは、よくあることなのかもしれません。

 

憧れとか、そういうもの。

そういうのは、まあ、あるよね、ということ。

 

でも、もうちょっと進むと、「私、○○リストです!」とか、そんな感じで、自分をカテゴリー化し出す(少なくとも、私は、気を抜くと、そんな気がありますw)

 

 

よし、今日から○○イストを目指すぞ!

 

みたいな。

 

 

それをすると、なんとなく、自分の方向性がしっかり見えてきて、そっちの方向に向かえば、良いわけだし、自分に自信もつくし、「私、○○なんですぅ」と、他の人にも自分のことを紹介しやすい。

 

「へ〜すごいね〜」と言われるかもしれないし、自分がなろうとしている新しい「私」が他者から認証されれば、若干の快楽すら覚えるかもしれない。

 

そんな気がする。

 

 

 

でも、自分を○○イストです!と、ある特定のイデオロギーに敢えて結びつけて、自分をくくり、自分が何者かをしっかり宣言するのって、悪いとかではなくなぜ今そうする必要があるのかなぜ○○リストです!と言う必要があるのか、それを考えてみたほうがいいような気がする。

 

 

なぜ「○○イストです」ということが、今の自分にとって必要なのか、心地良い行為であるのか、ということ。

 

 

「○○が好きだ」というのと「○○イストです」は、やっぱり違うと思う。

何かが真に好きで、それに没頭にしている人は、別に自分を「○○リストです」と言う必要がなさそうだから。

 

 

仏教では「無我」という概念があるけれど、「私は○○イストです」は、「我」にこだわりすぎているということなのかなあ…

 

 

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 自分がしていることが大好きで、情熱的にできて、それに没頭できて、「我」を忘れることができる人は、「私」に固執することなく、「自分を○○イストです」と誰かに言う必要もない。

 

 

確かに、「自分を○○イストです」と言わない時の私は、見えづらくて、つかみどころのないものなのかもしれない。だから、その小さな「私」を推したいとき、誰かに認めてもらいたいとき、売り出したいとき、必要以上に大きく見せたいとき、再生回数をあげたいとき、「私は○○イストなんです」というセンテンスが出てきそうな気がする。

 

 

あまりうまく言えないのですが、少なくとも、自分に関して言う限り、「私は○○イストなんです」と言いたいとき、言う必要があるとき、そういうときは、何かしらの危険信号であるような気がしています。

 

そんな気がする、ということ。