「大学って行く必要あるの?」という批判的問いについて考えたこと。
今の時代、大学なんて行く必要ないんじゃないの?という話をYouTubeで聞いていて、うーん、いろいろな考え方があるものだなと感じた。
私の見解は、知的探求を「学術的に行いたい」のであれば、大学に行った方が良い。
である。
話を聞いていると、「ビジネスをするには」「就職をするには」という感じ。
確かに、それをするには、今の時代、大学に行く必要もなさそう。
でも、学術の世界というのは、ある専門的な「ことば」を使用して、知識が厳格に構築される世界なのです。
この「ことば」というのは、専門用語というだけではなくて、広くは「言説」と言えるのかもしれません。つまり、我々が真理を話すときに「どう話すか」ということも規定しています。
例えば、自然科学の分野であれば、徹底的な客観主義的立場から、量的結果をもとに、真理を語ることを要求されること多い。
逆に、哲学の分野で言えば、いわゆる「科学的な言説」は求められないでしょう。
社会学は社会学的な伝統に基づいて、文化人類学は文化人類学的な伝統に基づいて、言語学なら言語学的伝統に基づいて、研究を行い、その分野、あるいは、社会に貢献することを期待される。
だから、ただただ物事をたくさん知っていて、「それをもとにビジネスができる」とか「稼ぐ額や人生の質がゴールだ」とか「ライフハック論」とか「知恵」とは、ちょっと話が違うと思うのです。
科学者がどう「真理(と呼ばれるもの)にたどり着くか知っていますか?
哲学者がどう「真理(と呼ばれるもの)」にたどり着くか知っていますか?
社会学者がどう「真理(と呼ばれるもの)」にたどり着くか知っていますか?
人類学者がどう「真理(と呼ばれるもの)」にたどり着くか知っていますか?
言語学者がどう「真理(と呼ばれるもの)」にたどり着くか知っていますか?
言語学の中でもいろいろな分野があります。違う方法論を使用することもあります。それらによっても話され方が異なってくる。
その分野について「たくさんのことを知っている」だけではないのです。
ある人が、ネットで学んだこと、一般書を読んで知ったこと、メディアを媒介して知ったこと、他の人から聞いたこと。そういう知識の量だけではないのです。
「知っていること」をペラペラ話し、それを実践して、生活が素敵になって、それを発信して、たくさん「イイネ」がついて、購読者が増えて、収益をあげて…
そういうことが目指すべき「真理」であれば、当然、それにあった「話し方」が生まれてきます。「独立」「収益可」「最適化」などなど、実用的な言説、機能的と思える言説に満ち満ちています。
当たり前のことかもしれませんが、これらは、大学で学ぶものではないのかもしれませんね。
ツイッターでも書いたのですが、「今の時代大学に行く必要ってあるの?」という疑問が生じるとき、高等教育に対する疑問や批判に終始してしまうのは、ちょっと違うのかなと思うのです。
意味があるのかを気にしているのは、「自分」です。
だから、高等教育に対する批判でなく、「なぜ自分が大学に行く必要ってあるのかと疑問に感じているのか」「どんな価値観に基づいてそう信じているのか」「どんなイデオロギーに影響を受けてそう思っているのか」など
まずは、自分自身を見つめることが大切なのかなと思うのです。
大学に行く必要がある?と言っている自分、それ自体をしっかりと内省できた方が、自分が本当に大学行く必要があるのか、より深く考えることができるのではないかと思うのです。