パガン遺跡を自転車で巡る。「スラマニ寺院」で古いフレスコ画を見て感動。シュエサンドーパヤー、マヌーハ寺院も寄って1日目終了!
お昼も食べて、一息。
午後の観光へと移っていきます♪
ランチ美味しかったです😃
次は、スラマニ寺院。
オールドパガンからは少し離れた場所にあり、地図や人の動きを見ながら、赤土の舗装されていない道を自転車で進んでいきます。
こちらがスラマニ寺院。
参道がありますが、靴はこの前で脱いで、ここはずっと裸足で歩いていきます。
これが、ミャンマーの寺院の面白いところだなあと思います。
地球の歩き方先生によると、1183年に建てられたそう。
パガンの歴史の中では、後期になるようで、建築も、けっこう凝ったものになっていますね。
通路はひんやり静かな雰囲気です。
こちらの目玉といえば、こちらのフレスコ画。
歩き方先生によれば、
内部の壁面には仏像や船に乗る人々、象などをモチーフにした11世紀のフレスコ画がある。当時の生活風俗が活き活きと描かれており興味深い。バガンの寺院のなかではもっともよく残っている建物のひとつ。
とあります。
1000年ぐらい前のフレスコ画が残っている!
それすごくないですか?
にわかには信じられないです。
けっこう大きく壁面に描かれています。
一歩引くと、こんな感じ。
大きさが伝わっていますでしょうか。
すごく良い雰囲気です。
こちら仏像は、色が塗り直されていますね。
よく見ると、あちこちに、フレスコ画があるんですね。
できた当時はどんなにきれいだったのでしょうか。
うん、やっぱり静かで、落ち着く。
外に出てきて、太陽は、まだまだギラギラしています。
自転車に乗って、どんどん移動していきますよー!
こんな牧歌的な風景が広がっています。
シュエサンドーパヤーに到着です。
こちらは、登って夕日が見られることで有名なパヤーですよね。
でも、崩れるおそれがあるということで、今は、登るのは禁止されているとのこと。
境内を見学していると、パヤーに登るための秘密の階段があるよー
と話しかけられます。
旅行をしていると、よくあるビジネスですが、やっぱりダメなんじゃないの?
見学し終わって、喉が渇いていたので、スラマニ寺院の近くの商店で飲み物をもらいます。
商店のおばさんがいうには、登るの禁止になってから商売あがったりよー、ということ。でも、最近パガン自体が世界遺産になったので、もしかしたら、観光客増えるかもねーと話していました。日本人や韓国人のビザが期間限定で無料になったことなど、色々なことを知っていらっしゃいました。さすがです。
現地の方とちょっと話をして楽しく、元気になったので、もう一つ。
オールドパガンとニューパガンの間にあるマヌーハ寺院(なんだか、ドラクエの呪文のですが)
地図で見ると、そんなに遠くないように見えたのですが、意外と時間がかかりましたね。
地球の歩き方によると、
マヌーハは、タトォン国の王で、アノーヤターに攻められたとき、マヌーハ自身も捕虜になってこの地に連行された。マヌーハは1059年、許されてこの寺院を建てたが、ここには囚われの身の鬱屈した気持ちが随所に表れている。
ですので、この仏様も、空間いっぱいに置かれており、王の鬱屈した気持ちや状況を表しているかのよう(とのこと)
このWelcomeというタイルがなんかミスマッチで面白いなあと思いました。
とういうことで、パガン観光の1日目、終了です。
訪れたのは、以下の7つの寺院とパヤー
それにしても疲れたー
コロナで時間があるから、自分の本棚にある「本」と向き合ってみるということ。
積読(つんどく)ということばがある。
Wikipedia先生に寄れば、
なんだかそわそわすることがあったとき、仕事の後にふらっと本屋に立ち寄ったとき、タイトルが表紙が面白そうだなと思ったとき、本を買う。
これを買おう!
そう思って、本屋に行くことは、実は、私は、少ない。
でも、買ったは良いものの、忙しくなって、次の本を買ってしまって、なんだか違うかなと思ってしまって、ちょっと開いて「積読」、全然開かないで「積読」は、残念ながら、よくある。
今、コロナウィルスの影響で、自粛中。
そういう今だからこそ自分の本棚を見ることってけっこう意味のあることじゃないかと思う。
そういう「積読」は、何かしらの意味があって、自分の注意を引いたのだから。
今の自分に共鳴する感じがする
今の自分に足りないものを補ってくれるかも?
「自分」というものの理解を助けてくれるんじゃないか?
こんな本が読めるような人なりたいなあ
この作者の生き方が好きなんだよなあ
こういう教養を身につけたいなあ。
理想的な自分に近づけるかも?
この本を読むことなしに人生を終わりたくないなあ
などなど。
本を選ぶということは、やっぱり自分に、アイデンティティに関わっていると思うのです。
でも、忙しい毎日を送っていると、他にしたいことがたくさんあると、そういう過去の自分との対話の機会が後回しになってしまうことがある。
それを表している一つが、「積読」なんじゃないかなと思うのです。
今は、家にいる時間が長い(そういう人が多くなってきている)
新しい本を買って読むのではなく、「積読」と向き合うことで、自分というものを考える大切な機会になるような気がする。
「積読」であれば、もう決済は済んでいる。だから、お金もかからなそうですね。
パガン遺跡を自転車で巡る。川沿いの「ブーパヤー ・パヤー」とローカルマーケットで「タナカ」とか見て興奮。
アーナンダ寺院で、美しい仏像を拝ませてもらった後は、いよいよオールドパガンに入っていきます。
目指すは、プーパヤー ・パヤーなのですが、途中道を間違えて、エーヤワディー川のほとりまで来てしいました。
あれ? なんか違う。
現地の人に聞いて、坂道を戻ります😅
ちょっと道を間違えてしまいましたが、到着。
今回4つ目の立ち寄りスポット、プーパヤー ・パヤーです。
この一口にあるハンプティダンプティみたいなの、なんだろう?
これも、ナッ神(パガンに仏教が入ってくる前の多神教的土着信仰)の一つなんでしょうかね。
やぱり、こちらの円筒形の仏塔ですかね。
地球の歩き方先生によると、
言い伝えによると7-8世紀頃、ピュー族によって建てられたと言われている。この仏塔も1975年の地震で大きな被害を受け、石が粉々になってエーヤワディー川に流れてしまった。
とあります。
調べてみると、1975年にパガンで大きな地震があって、多くの歴史的建造物が被害を受けてしまったようです(https://wonderbagan.com/ja/history)
なるほど、そういうこともあったのですね。
仏塔の向こう側には、先ほど間違っていってしまったエーヤワディー川。
みなさん、写真を撮っています。
こちらのエーヤワディー川、マンダレーからフェリーに乗ってくることができるようですので、今度ミャンマーにくる時には、ぜひ、ゆっくりと船での旅行も楽しみたいと思っています。ご経験された方、ぜひ、ご感想聞きたいです!
それから、このあたりを遊覧するボートトリップもあるようなのですが、ちょっと値段が高そうななので、遠慮されてもらいました。
プーパヤー ・パヤー周りにはローカルのお店もたくさん出ていきました。
これ、ミャンマー伝統の自然化粧品、「タナカ」です。ミャンマーを旅行したことのある方なら、嫌なほど(?)、タナカ〜と人が顔につけて来ようとするのを体験したことがあるのではないでしょうか。皮膚に塗って、日焼け止めの効果として使うようです。ミャンマーの方、本当にけっこう使っていますよね。
タナカ、街中とかでたくさん売っているし、みなさん使っているので「あー本当に使っているのね、ふしぎ発見でやっていた通り!」というのはわかるのですが、実際に、この木から作られていているんだねー! しかも、この木ごと買っていくわけ? 面白くない?と連れと一緒にテンション、興奮気味でした。でも、この木は買って帰れない。
代わりに、空港でお金がちょっと余っていたので、タナカの石鹸を買いました。
ミャンマーの色々なスイーツも買うことができます。
私たちは、左奥の方にある、タマリンドの砂糖漬けのお菓子をレストランで頂き、美味しね〜ということで、購入しました。
他にも買いたいもの、食べてみたいものなど、たくさんあってのですが、持ち帰る訳にもいかず…
ちょっとだけのタマリンドのはずったのですが、バラ売りはできず、こんなたくさんになってしまいました。多分食べきれない…
タマリンドの砂糖漬けを自転車の荷台に積んで、次の寺院に移動していきます!
パガン遺跡を自転車で巡る。「ゴドーパリィン寺院」で尖塔を見上げたり、仏像を見上げたり。そのあとのランチも。
自転車で巡るパガン遺跡、まだ続いています。
(まだお昼前なのに。だいぶ観光的にボリュームのあった1日だったんですね)
川べりのプーパヤー ・パヤーを見て、ローカルマーケットで色々と見物した後は、オールドパガンの中にあるゴドーパリィン寺院です。
こちらだいぶ高い寺院だなあと思って見上げていたのですが、気球の歩き方先生によると、「パガンで2番目に高い寺院」であるとのこと。オールドパガン内にある寺院、やっぱり人気があるのでしょうか、かなり人で混雑していました。
中に入ると、やっぱり他の寺院と同様、仏像が安置されています。
こうやって、通路にも仏像が安置されています。
仏様の手を見てみると、こんな感じ。指を地面にソフトタッチの「触地印」ですね。
仏像は印相を見るのが本当に面白いですね。皆が触っていくので、表面がはげています。
触地印(そくちいん)(Bhūmisparśa Mudrā)降魔印ともいう。坐像で、手の平を下に伏せて指先で地面に触れる。伝説によると、釈迦は修行中に悪魔の妨害を受けた。その時釈迦は指先で地面に触れて大地の神を出現させ、それによって悪魔を退けたという。このため触地印は、誘惑や障害に負けずに真理を求める強い心を象徴する。釈迦如来のほか、阿閦如来や天鼓雷音如来が結ぶ。
見上げるとこんな感じ。
よく見るとがっしりした御御足をしているのですね。
こちらは違う仏像の「触地印」。指が長い。
どの仏様も本当に穏やかな顔をしていました。
日本のお寺を見ていると、如来像、観音像など、色々な種類がありますが、みなさん、ご存知の通り、ミャンマーは、上座部仏教。ということで、どこもかしこも釈迦像。そりゃそうですよね。
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午前中回ったお寺は合計5箇所。
たくさんの仏像を見て、ちょっと、うーん、お腹いっぱいになってきています。
でも、本当のお腹の方は減ってきているので、お昼にでもしましょう!ということで、本日は、こちらのレストランにやってきました。
オールドパガンはタラバー門のちょっと外にあるサラバーレストランです。
中はなんか煉瓦造りのようになっていて、外国人用のレストラン、という感じでしたかね。
とても喉が渇いていたので、しぼりたてのジュースで乾杯🥂
もうお腹が空いていたので、なんでもいいよね。サクサクと注文っ!
チキンのフライドライスとチキンのカレー。
どちらもとても美味しかったです。
それにしてももう午前中だけでヘトヘト😅
パガンを観光するときには、あんまり欲張りすぎないように!とどこかのブロガーさんが書いていたけど、それも確かにある。
知識のあまりない私たちには、どこも似ていて、建物に特徴がないと、あれ?ここ行ったっけ?という感じにもなりそう。
いちいち地球の歩き方先生を見て確認したり、勉強しながらの「なるほど〜」と確認していくのが大切かもね、と作戦を立てながら、午後はもう少しペースを落として、ゆっくりと見ていくこともしました。
ちなみに、私たちが参考にしていたのは、「地球の歩き方ミャンマー2008-9」に掲載されていたこちらのページ。めちゃくちゃあるお寺さんの中でも、これは見ておいたほうがいいよーということを教えてくれます。最新版の2020-21年版にはもう少しテーマごとに分けられたミニコースが載っているので、そちらを参照しながら、無理をせず、少しずつお寺めぐりをするのが楽しいのかもしれません。
過去の旅行の思い出をブログで書くことの意味について考えた。
昨日ツイッターでも呟いたのですが、最近旅行に行けなくなってから、昔のアルバムを見ることが多くなったと思う(ジジィ臭漂いますが😅)
旅行に本格的に行くようになって10年ちょっと。
旅行をし始めたときには、いろいろなことがもっと新鮮だったようにも思えます。
若さもあったのかもしれないけれど、もっと冒険していたしね。
でも、最近はどうだろう?
プールでゆっくり、ホテルでゆっくり、「暮らすように旅する」的なクラスターにいる。
それはそれでいいのだと思うけれど、ワクワク感とか、ドキドキ感、旅行の非日常性とか、特別感とか、ちょっと取り戻したいなあとも思っている。
今回の自粛はそういう大切なことを思い出す機会になっているのかとも思う。
過去の旅行のことを書くことについて、こんな意見がある。
ブログの情報は、新鮮さ、正確さだよ。
確かにそれはある。
そうじゃないとPVは稼げないんだよ、君。
確かにね。
でも、私のブログの目的はそうじゃない。
私の旅行ブログが扱うのは、
私の思い出、私の経験、私の見た主観的な世界
学術的には、現象学、というのだけれど、客観的な世界ではなく、あくまでも、私が知覚した世界を描写すること。
ここでは、客観的な情報の代わりに、私の喜びや悲しみ、興奮や憤りなど、たくさんの感情が主役になることが許される世界。
だから、客観的な情報に照らし合わせれば、勘違いがたくさんある。偏りもあるし、偏見もあるでしょう。
でも、それは、当たり前。それが前提なのです。
知覚の世界なのだから。
客観的な情報は(というものがあるとすれば)、ガイドブックがしてくれるし、まとめ系サイトがしてくれる。Wikipediaがしてくれる。
客観的な情報の提供は、他の誰かができること。
でも、私が知覚した世界は、他の誰かが記述をしてはくれないし、他の誰かが記述できるものではない(誰かを雇ってロングインタビューをするとか、まあ、方法はなくはないのかもしれないれど)
もちろん、そういう知覚の世界は、時間が経つにつれて、変化していくもの。
記述する「私」自身が変わっていくのだし、その私が「今」という次元から過去を評価しているのだから。
「時間」という現象を考慮することなしには存在し得ない世界。
それが過去の旅行の思い出をプログで書くということ。
だから、客観的な世界とは、ますますかけ離れていくのだけれど、その代わり、過去のその時と今が出会う次元にあると考えることができる。
過去の旅行の思い出をプログで書くという行為は、その時の経験を思い出しながら、自分の今と結びつけながら、進めていく作業だ。
記事上方のアンコールワットの写真。
その時の気持ちを覚えている(と今の私は思っている)
今の私と過去の私にはいつもズレがある。
その過去の旅行の経験を懐かしんだり、大切に感じたり、「若かったなあ」と反省したり、どう成長したのかと考えたり、今の自分にとってどういう意味があったのかな…だったり、なんでまたここに行きたいのか、いやいやもういきたくないよ…なのかだったり、なんでこういう旅行をしなくなっちゃったのかな…だったり、もっとこういう旅行をしたいなあだったり。
そういうことを意識しながら、そういうことを大切にしながら、過去の旅行の思い出をアップしていく。
そうすると、これから先どんな旅行がしたいのか、どういう旅行が自分にとって意味があるものなのか、見えてくるのかもしれない。
過去と今と未来がつながってくること。
その中で、色々な「私」が出会い、一つの理解可能な意味体系として、構築、再構築される出来事。
そこに、情報の羅列や新鮮さ、正確さの追求とは異なる、私的で、自己内省的な「私の世界を記述する」旅行記を書く重要性の一つががあるのではないかなと思う。
最後まで読んでくださいまして、ありがとうございました。
古いガイドブックで旅行する楽しみ。
こもっているので妄想旅行計画をする毎日。
そういえば、私は、古いガイドブックを使っているなあと思う。
この前も10年以上前の地球の歩き方を使って、ミャンマーを旅行してきました。
どれも古い。ていうか、最近ガイドブックなんて買わない人も多いですよね?
ガイドブックなんて、新しい方が良いに決まってんじゃん!
確かに、情報は確実に古いのだけれど、重要なことは変わってない。詳細はやっぱりネットで調べるし、どこかにいく前に、心配だったら、SIMフリーの携帯電話を持っているので、それでチェック。
だから、問題ない。
でも、だったら、新しいガイドブックを持って行ったら?
確かに。
でも、ぽっと出のレストランより、10年経っても続いているレストランはやっぱり美味しいし、地元の人や観光客にも愛されているんじゃないかなぁと思う。
それに、10年前に比べて、どれくらい値段が上がっているんだろう?
そういうのが気になる。
それから、昔の自分の書き込みがあるので、日記代わり。
自分の昔の書き込みを見ながら、いつ行ったのか、どんなふうな感想を持ったのか? ガイドブックとは違うどんな視点をもったのかとか、など、そんなことを見ているのも楽しい。
これからも、同じガイドブックを持って、その国に出かけることになると思う。
自分の書き込みで、自分らしいガイドブックになっていってくれたらいいなあと思う。
やっぱりモノを大切に使うということかなあ。YouTubeの動画を見ていて。
たまに動画を拝見するYouTuberさん(YouTuberと括られることにご本人がどう思われるかわりませんが)に、Jimi henさんという方。
すごく自己内省的で、面白い考え方をされています。もともとは、いわゆる「ミニマリスト」と呼ばれるクラスターで情報を発信されていたのですが、ある時、「ミニマリストやめます!」みたいな動画をアップされていて、「へー面白い方もいるんだな」と思って、そこから、基本ROMですが、見させてもらっています。
最近あげられた動画の中で、コロナウィルスの影響に触れながら、2020年のミニマリズムという動画を拝見していて、なるほどね、と思いました。
最近でもないと思いますが、「ミニマリズム」というイデオロギーが流行っていて、私も、一時期興味を持っていたのですが、なんとなく、しっくりこず。
…なんだろう、この違和感…
という時期がありました。
ものをどんどん捨てていく。
ものに対する執着がなくなり。
生活がすっきりして。
自分自身を見つめ直すことができて。
貯金が貯まって。
マインドフルで。
生活が豊かになる。
なんか響きがいいし、惹きつけられるものがある。
確かに、ものがたくさんある場合、落ち着かずに、頭の中もぐしゃぐしゃ、買わなくていいものまで買って、消費脳でぐるぐる…というのは、良くない。
それは、わかる。
でも、これだけものが少ないんですよ〜って、生活感がないでしょ〜って、量より質なんですよ〜って、なんかしっくりこない。
多分、ものをどんどん捨ててるからかなあ…
自分、自分の空間がスッキリしていたらいいのかなあ…
周りは? 環境とは?
おそらく、私が好むイデオロギーとちょっと違うから、それだけだとは思うのですが。
前も、ブログで書きましたが、私は、ものを丁寧に使い切る方に価値を置いているんだと思います(以下の記事はミニマリストではなく、主に断捨離から書いたものですが)。
多分人間関係でも、そう。
あまりポンポンポンポン「整理」をしない。
それよりも、今あるものを大切に使いたいし、今まであってきた人との関係も大切にしたい(こじれた人間関係もあると思うのですが、それを修復するときに、そこから人間関係の構築が始まるような気がしています)
モノをポイポイ捨てて、あるいは、モノをアップグレードしていって、素敵な空間、洗練された空間に住むことも一つのイデオロギー。
私は、今あるものを大切に使って、生活を豊かにしたいなあと思うクラアスターにいるだけなのかもしれません。
モノに対する関係の取り方は千差万別。
「捨てるのか」「捨てないのか」いずれにしても、モノとの関係は、我々のあり方を規定します。そういう意味で、人とモノは、切り離せない関係にあるんだなあとつくづく感じます。